そこのあなた。
まさか真田幸村の手足「真田十勇士」が実在していたなんて思ってないでしょうね!?
真田十勇士は大正期に書かれた講談本『立川文庫』に登場する、架空の忍者軍団です。
ではなぜ、この「実在しない者達」が誕生したのでしょうか?
- 真田郡の山中では修験道が盛んだった。
修験者は諸国往来が割と自由にできたので、忍者的な活動が容易にできた。
ここから「真田=修験者=忍者」という発想が生まれた。
- 武田信玄の「弟子」である真田昌幸パパは、忍者による情報収集に長けていた…らしい。
(どれくらい情報収集能力があったかというと、九度山蟄居中に真田紐の行商に見せかけた「草」、つまり忍者を放ち、諸国の情勢を探らせた…なんてネタが創作できるくらい)
- 信繁(幸村)が奇襲と攪乱戦法を多用したので、その「駒」として忍者軍団の存在が想定された。
- 「信繁には影武者がおり、大阪城で死んだのは影武者の方。本物は豊臣秀頼とともに西国に落ち延びた」…という、いわゆる「秀頼生存説」に絡んだ噂が、夏の陣直後からあった。
(この影武者の数がいつの間にか3人、6人、8人と増え、最終的に10人に)
- 江戸期に書かれた「真田三代記」に、猿飛佐助と海野六郎以外の8名が(少々名前に差違があるものの)幸村の部下として記載されている。
「真田三代記」は史書と言うには考証がいいかげんな「小説」だが、読み物としておもしろいらしく、広く流布してしまった。
そのため「真田に影の忠臣あり」が通説と化した。
- 出雲の武将尼子氏の傘下に「尼子十勇士」と賞される能臣がいた。
この「十勇士」という言葉の響きが、信繁(幸村)の優秀な配下のイメージと重なった。
- 架空の人物達を添えることによって、読者の感情移入がうながされる。
それによって、本の売り上げがUP…ぢゃなくて(爆)
読者は、徳川をこてんぱんに熨した{前科3犯。神川合戦(徳川軍潰走)、第二次上田合戦(秀忠足止め事件)、大阪夏の陣(家康本陣総崩れ)}真田というヒーローを、身近に感じることができる。
(三国志演義における「絶世の美女・貂蝉」や「関羽の忠臣・周倉」と同じですな)
こんな感じでしょうか。
なお、十勇士の内「海野六郎」「望月六郎」「根津甚八」は、真田氏の縁戚に当たる「海野氏(ここが真田の本家)」「望月氏」「根津氏」から名字を拝借しているものだと思われます。
夏の陣で信繁の軍にいたとされるもののふの中にも、この3つの姓を名乗る者がいたと言うことです。
ついでに。
俳優の根津甚八さんは、十勇士の「根津甚八」から芸名をイタダキされたそうです。
十勇士キャラクタ簡易解説 (画像は六文銭®携帯ストラップの絵柄サンプルを、販売元の許可を得て利用させて頂きました)
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真田幸村 (1567〜1615) 本名は信繁。信濃上田城主・真田昌幸の次男。 「幸村」の名は九度山蟄居中に名乗ったとも、後世の創作とも言われているが、定かでない。 確かなことは、本人はこの名を名乗ったことがないということだけ。 大阪夏の陣において豊臣方の将として、深紅の鎧をまとい出陣。 徳川家康を三里も敗走させ、切腹を覚悟させた。 結局は後詰のない豊臣軍は全滅し、幸村も疲労の為に休んでいるところを西尾宗次に討たれた。 後年、家康は持病の腹痛を「真田(寄生虫サナダムシ)のセイ」と思い込んでいたという。
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猿飛佐助 架空の人物で、甲賀忍者。 信州・鳥居峠の麓付近で生れ、山中で猿を相手に育った。小柄ですばしっこい。 | 霧隠才蔵 大阪冬の陣で活躍した忍び「霧隠鹿右衛門」をモデルにした架空人物。 伊賀忍者。 | 三好晴海入道 五十人力を称する大入道。 猿飛佐助とコンビを組んで諸国を漫遊した。 架空の人物 | 三好伊三入道 晴海の弟。出羽国亀田城三好三人衆の後裔だが敗走し、由利鎌之助と山賊に堕ちていた。架空の人物。 | 海野六郎 真田家と同族の滋野一党宗家・海野家出身の智慧者。 実在したか否かは不明。 |
穴山小助 『真田三代記』に名がある。 武田信玄の重臣・穴山梅雪の甥というふれこみだが定かでない。 幸村の影武者。 |
由利鎌之助 天下無敵の鎖鎌の使い手。 『真田三代記』に名が出てくるが、実在は疑わしい。 | 筧十蔵 豊臣譜代の蜂須賀家の家臣であったが幸村に心酔し、臣下に。 おそらく架空の人物だが、資料が少なく、詳細は不明。 |
根津甚八 真田家と同族の滋野一党に禰津氏があるが、そこから連想されたと思われる人物。 鎌之助の喧嘩友達。 |
望月六郎 『真田三代記』に、幸村の影武者として名が出てくる。 滋野一党・望月氏の出か。 |
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